東國鬪戰見聞私記

巻之六 第二項
正木大膳、敗北に付、二條城に逃入る事

 さて、大須賀尾張守は正木大膳が矢作城を攻撃したのを聞いて、救援に向かうべく兵を集めた。木折能登・矢木兵部・鏑木蔵人・神崎大和・秋山内記等が馳せ集まった。
 大須賀尾張守が申したのには、
「今、矢作において正木が城を攻めているので、急いで救出に行かなくてはならない。各々出陣の準備をせよ」
 と木折に先陣させて、宮小四郎・久郷主計・石橋大膳・飯岡兵部・松崎式部・中野・芝田・藤崎、三千余兵、大須賀を出発し、矢作城に急いだが、途中で若君を抱いた圓城寺・長澤に出くわした。圓城寺らは急いで馬から降りて矢作城落城、信月切腹の次第をつぶさに申し上げたので、尾張守は大いに驚いていたところ、追っ手が間近に迫ってきた。
 尾張守は「それ!追い散らせ」と下知すると、木折・矢部一千騎にて鳥井筑後・村田兵衛の兵と渡り合い、攻め戦う。鳥井らは新手の大須賀勢に攻め立てられ散々に打ちのめされて退却するのを、木折らは勝ちに乗じて追撃する。
 後陣に控えている正木大膳・二條大内蔵は防備を固めて待ち受ける。大須賀方・秋山内記・矢木民部が名乗りを挙げると、長南次郎が三百余の兵に突撃するが長南は大敗北して退却始めると高根・田子・中村のものども五百余入れ替わって戦う。木折能登は
「味方を討すな、兵ども!」
 と大太刀を振りかざして援護に出たので、飯高・神崎・宮・小野・久能・石橋・伊東・椎名・廣岡・稲尾村の兵どもも
「我々も負けないぞ」
 と勇気を振り絞り、きりさきをそろえて大山が崩れるごとく一斉に突撃した。
 正木勢はこの勢いにおそれて北を目指して退却を始めた。正木は
「引くな引くな!」
 と下知するが、大勢が退却するのでその声も聞こえず、我先に遁走するところを討ち取られてしまう者は数え切れない。大膳も四、五騎にまで討たれてやっとのことで命を免れて舟に乗って二條城へ逃げ込んだ。
 尾張守は大勝利を得て大須賀城に戻った。




 この項は、前項の続きで、大崎城落城の報を聞いた松子城主大須賀政常が急遽援軍に出撃し、正木勢を打ち破り正木大膳は大倉城へ逃げ込んだ、という内容である。 最初から最後までほぼ全て戦闘シーンで占められている割には、前項に比べて妙に淡々と語られているのが特徴的である。
 さて、史実の方はどうなのか。まず、この項のように大崎城落城の直後、大須賀氏の反撃でもって正木氏が撤退したという事実は、現在のところ確認されていない。このような合戦が行われれば、地元に伝承や慰霊碑の類が残されていてもよさそうだが、これもない。従ってこの合戦の記事は史実として扱うにはかなり疑わしいと言わざるを得ない。



二條城
 大蔵氏居城大倉城のこと。

大須賀尾張守
 大須賀尾張守政常のこと。
 【大須賀氏の出自】 千葉常胤の四男胤信(?-1225)は下総国香取郡大須賀保等を所領し、大須賀四郎と称した。すなわち千葉六党の一つ大須賀氏の祖となった。名字の地、大須賀保は現在の香取郡大栄町を中心とした地域と比定される。いつの頃かは判然としないが大須賀氏は、松子城(大栄町)を拠点とする本宗家「松子大須賀氏」と、助崎城を拠点とする「助崎大須賀氏」に分裂した。前者は代々「尾張守」、後者は「信濃守」を称した。『東國鬪戰見聞私記』では「大須賀尾張」と「大須賀信濃」の二人が登場するが、それぞれ松子大須賀氏の当主、助崎大須賀氏の当主であることを念頭において読んで頂きたい。この項に登場する大須賀尾張守は松子大須賀氏(松子城主)ということになる。

松子城遠景 助崎城遠景
松子城遠景 助崎城遠景


木折能登・矢木兵部・鏑木蔵人・神崎大和・秋山内記

 大須賀氏の家臣団。他には「宮小四郎・久郷主計・石橋大膳・飯岡兵部・松崎式部・中野・芝田・藤崎・飯高・小野・伊東・椎名・廣岡・稲尾村」も登場する。この中で、実際に大須賀氏の家臣だったと確認できるのは「中野(中野城主)・神崎大和(神崎城主?)・稲尾村」だけである。「稲尾村」というのはちょっと興味深い。稲尾村は伊能城のある地で、前項において壮絶な自刃を遂げた伊能信月の故郷であることを考えると、旧領主の弔いのために出陣してきた村人たちとも云える。

後陣に控えている正木大膳・二條大内蔵は防備を固めて待ち受ける
 正木勢はどこで待ち構えていたのか。まず時間的な推移を考えると、大須賀尾張が反撃に出たのはこの文脈から読みとれば大崎城落城から1日以内であろうから、正木勢の大幅な移動は考えにくい。となれば、大崎城に籠城したか、あるいは城から出て大崎城と松子城の間に布陣していたかのどちらかである。戦闘シーンの描写を見ると、どう見てもこれは籠城戦ではなことは明らかで、正木勢は城から出て野戦を挑んだに違いない。現実の世界では言うまでもないが、大崎城と松子城の中間で合戦が行われたという記録は残されていない。

名乗りを挙げると
 『東國鬪戰見聞私記』を読んでいて時々頭を抱えたくなってくるのが、このような表現である。戦国時代末期にもなって名乗りを挙げる武将などいようか。騎乗して名乗りを挙げる侍など恰好の鉄砲の的である。どうも『東國鬪戰見聞私記』作者は『太平記』の世界から脱却できていなかったらしい。

きりさき
 縁をぎざぎざに切り裂いた幟のこと。

大膳も四、五騎にまで討たれて
 正木勢は当初、四千余りの兵力だった。それがたったの四、五騎まで減じたとなれば、これは全滅と言っていい。本文にあるように大須賀氏大勝利なのであるが、何故か大須賀尾張は追撃せずに松子城に帰ってしまっている。この機に乗じて一気に大倉城まで攻め込んで正木の首を挙げるというのが戦のセオリーではないのか。正木は舟に乗って大倉城へ逃げ込んだが、馬で陸路を駆け付ければ先回りも可能であったに違いないだが。

舟に乗って二條城へ逃げ込んだ
 正木氏が強力な水軍を擁していたという事実を踏まえると、この記述は興味深い。まず、大崎城から舟で大倉城へ帰るという手段は可能である。大崎城下を流れる香西川を下り、小野川へ合流する。さらに小野川を下れば利根川(往時は香取海)に至り、そのまま河口へ向かえば大倉城下まではすぐである。大崎城への進撃の様子は描かれていないが、進撃も舟に因ったものだとすれば、正木氏の北総侵攻の姿が見えてくるかもしれない。



総論
 前述したが、この項はほとんどが戦闘シーンであるにもかかわらず、前項に比べるとその戦闘描写に臨場感を感じることが出来ず、やけに淡白な印象を与える。更に言えば、やっつけ仕事に書いたような印象も拭えない。推測ではあるが、前項は大竜寺六角石碑文あるいは共通の元ネタを題材にして書いたもののその後の正木氏撤退の事実を書こうにも詳細が判らなかったので、竹若丸の絡みから大須賀氏の反撃を創作したのではなかろうか。

【正木時忠に反撃を加えたのは誰か】

 現実の世界では、正木時忠は小見川の相根塚を拠点として北総を荒らし回ったが、大崎城攻略戦の後、反撃を受けて撤退を余儀なくされている。さて、この反撃を成功させた武将は一体誰なのか、研究者の間でも意見が分かれている。
(1)大崎城主、国分胤憲
(2)松子城主、大須賀政常
(3)国分・大須賀連合軍
の三つの説が論じられている。
(1)の根拠とする史料は『掛巣家記』(東庄町夏目の掛巣家の記録)「正木勢の攻撃によって香取郡の諸城は支えることが出来ず降ったのに、大崎城一城のみは降らず、かえって房州軍の本拠である小見川を強襲した国分胤憲の武勇により、房州軍は撤退を余儀なくされ、ついに諸城も旧に復することが出来た。このため胤憲の武勇は小田原北条氏の賞するところとなった」という記述からである。
(2)の説はなんとこの『東國鬪戰見聞私記』や『東國戰記實録』のこの項を根拠としている。
(3)の説は上二つの折衷案。
 前項で取り上げた大竜寺の六角石碑文にはどう刻まれているかというと、これが大崎城落城のあとは何も記されていない。

【正木時忠×大須賀薩摩丸】
 正木氏と大須賀氏の対決が全くなかったのかというと、実はあったらしい。それを示唆する千葉介胤冨から大須賀薩摩丸へ宛てた書状が残されている。

 大須賀薩摩丸宛千葉胤冨書状

急度申届候□□□山在番之内長々
陣労不及是非□□房州衆富田
臺江打上陣取候而近邊相散候昨
今帰陣之間更以雖大儀候敵如此
案□□□□□之様致之上可及一行候早束
人数悉当地近所江着陣尤候少
御油断不可有候巨細幡谷大和守可
申候恐々謹言

追而寺山在城之陣労
以使雖可申届候敵
如此之様故邇々結句
人衆之事申届候随房州衆
條々守様被仕啓候上
爰元見合一行可
□□□□□速人衆之事
被指越候


  十月廿四日 胤冨(花押)
  大須賀薩摩丸殿


 これは年欠ではあるが、千葉介胤冨が大須賀薩摩丸に宛てた軍勢催促状である。年代は胤冨の花押型などから永禄三年頃と比定される。内容は「『房州衆(正木勢)』が富田台に陣取って近辺を荒らし回っているので、寺山城の在番から帰ったばかりで大変だが早急に富田台近くへ出陣して欲しい」というものである。
 宛名である大須賀薩摩丸であるが、これは誰のことなのかはっきりとは判っていない。大須賀政常かその先代の常正だと思われる。
 富田台とはどこか。これは現在の小見川町富田と比定されるが、富田は利根川に接する低地であり、台地ではない。更に一考を要しよう。富田は正木勢が攻め落とした小見川城の背後の地であり、この時すでに小見川城は落城していたことが窺える。では、大須賀薩摩丸が出陣した結果はどうなったかというと、次の文献から窺うことが出来る。それは永禄五年(1562)六月二十九日に正木信茂から叔父である正木時忠へ宛てた書状であるが、その中に「下総悉本意候(下総はかねてからの希望どおりになった)」という記述がある。そのような書き方をされているところをみると薩摩丸は負けてしまったのかもしれない。 



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