東國鬪戰見聞私記

巻之六 第一項
正木大膳矢作城を攻るに付き、信月入道自害並に由来のこと

 ここにおいて里見兵庫頭義弘二條大内蔵より内通があったので、「下総国矢作城を攻撃せよ」といって三千あまりの兵を正木大膳を大将として向かわせた。道中、鳥井筑後・村田兵衛・森戸五郎・二條大内蔵、馳せ加わったのでほどなく四千あまりになって攻め寄せた。この城には稲尾入道信月長澤台林・圓城寺泰種等が城兵として守っていた。正木勢は軍議のを終えると、正木大膳、真っ先に城に押し寄せて大手・搦め手で鬨の声をあげた。城兵もあらかじめ決心していたことなので、同じく鬨の声をあげ、城外へ打って出た。寄せ手は安田・高根・中村・長南のものどもエイエイ声を出して攻めかかる。城兵、小倉・長澤・金田・圓城寺・林の面々、勇気を奮い起こして、ここを運命の分かれ目とばかり攻めかかる。午の下刻(13:00頃)より申の刻(16:00頃)まで火花を散らして戦った。城兵は多勢に攻め立てられ、味方は小勢なのでついに戦い疲れて城内に退却した。追撃してくるのを木戸を固く閉ざして櫓の上より(矢・鉄砲を)雨霰と打ち出したので寄せ手は少しためらって前進しかねているところ、正木は何を思ったのか兵を収めて本陣へ引き返した。
 さて、城方(矢作城)が評定したところ、「今日の戦闘で味方の討ち死には若干である。所詮、この城は守りが堅い。今宵、大須賀城へ落ち延びよう」という人も多い。「いや、討ち死にせよ」という人もいて、評定はばらばらでまとまりがなかった。稲生入道信月が長澤台林に申すには、
「今、落ち延びようとすれば追撃されて討ち取られるであろう。偽って敵に降参し、この城を渡し味方を落ち延びさせよう」
という。台林は了承して書状をしたためて二條大内蔵の陣に送った。
 二條はこの書状を開いて読むと
「城方は今日の戦闘で大勢討ち取られたとはいえ、死を覚悟した兵が二百余人もいる。これを攻めるとなれば寄せ手は多くを失うだろう。私はお前とよしみがあるから内通しよう。この城を攻め落とせ。東の門に火の手をあげるから、これを合図に攻め込め」
 と、まことしやかにしたためてある。大内蔵は喜んで正木大膳に相談して、夜が更けると陣屋を出て静かに城内からの合図を待った。
 信月入道は嫡子越前、同勘解由を呼んで、
「早く若君を伴って人々と共に大須賀城に落ち延びよ」
 と言う。越前曰く
「我もここに残り、敵を欺き自害するつもりだ」と。
 入道は大声で怒鳴りつけた。
「おまえは日本一の馬鹿者よ。大将たらん人はこのような時は堪え忍んで、幼君の成長を見届けることが忠孝の道というものだ。一時の恥を思って討ち死にし、主君の未来を見届けて家を潰すは犬死である。見るのも汚らわしい。七生までの勘当だ。さっさと立ち退け」
 と憤慨すると勘解由・越前は涙を押さえて
「そこまでおっしゃるなら仰せに従うべきだ。勘当御免」
 と詫びたので入道は喜んで
「早々に落ち延びるがよい」
 といって長澤・林・金田・圓城寺等の兵都合三百余騎用意出来たので、夜は四更(3:00頃)におよんで、時頃よしと信月入道は櫓に火をかけていたところ、折しも風激しく猛火盛んに燃え上がる。敵は「それ!合図の火だ」と言いながら我先に東の門をうち破る。この機に紛れて若君を伴って大須賀に落ち延びていった。火は次第に燃え上がり、本丸へ燃え移っていったので(信月入道は)若い一族十騎で敵を支え巧みに防いだ。入道は「今だ!」と矢倉の戸を押し破り大声をあげ、
「稲生城主安芸守の孫、稲生入道信月。歳積んで七十三歳。今、運尽きて若宮を殺してきたところだ。今から自刃するからよく見ておけ」
 と(叫び)、鎧の上帯を切り捨て着物を脱ぎ捨て弓のような腹に(刀を)突き刺して切り裂き腸を取り出してその先端を口にくわえて逆さまに落ちて死んだ。
 正木大膳は四方の火を消して討ち取った首を実検すると林・圓城寺・長澤台林の首がないので、
「さてはたばかって落ち延びたぞ。追いかけて討ち取れ!」
 といって、鳥井・村田一千余騎はあとを追いかけた。

 そもそも、この稲生の先祖は往古日向国塩田というところに長者がいた。娘を一人持っておりその名は『花の許』と申した。容姿端麗にして父母の寵愛は深く自慢して高貴な人の嫁にしようと家の後ろの庭園に部屋を構えて年頃になるまでそこに住まわせておいたところ、『花の許』は十八歳になった。
 その春の頃、水色の狩衣に立て烏帽子を被った男がどこからかやってきて、『花の許』に逢っていろいろ戯れた。女は初めは承知することもなかったが、毎夜来て懇に口説いたのでさすがに女も木石ではなかった。その後はうち解けあって馴れ初めると、この男、風雨の夜も厭わなく一ヶ月あまり通い続けると、このことは長者夫婦の耳に入り、母が姫に申したのには、
「立て烏帽子に水色の狩衣を着ていると言うが、どのような人なのですか。そのような人はこの辺りにはいない。詳しく語りなさい」
 という。 姫は
「細かいことと言っても名前も住居も申しません」
 という。すると母は
「このようにして探りなさい」
 といって、糸に針をつけて渡した。姫は喜んで部屋で待っていると案の定、あの男がやってきた。明け方に(男の)裾に針を刺すと男は気付かずに糸を引いて帰っていった。母にこのことを伝えると
「人を遣わして糸の先を探りましょう」
と答えると長者夫婦と姫もろとも、従者をつけて後を追い、谷山を越えて豊後との境界の姥が嶽という場所に糸が止まっている大きな洞穴がある。娘は穴の中を覗いて
「どのような人がいらっしゃるのですか。おいでなさい」
 というと、中から答えたのには
「花の許であるのか。お前は私が帰るときに細い針を刺した。大事な手であるので苦痛耐え難い」
 という。姫は悲しく思って
「抜いて差し上げましょう。ここへおいで下さい」
 という。
いいえ、私はこの苦痛によって通う力も失せて世にも恐ろしい姿になってしまった。あなたの胎内に男子があるだろう。よくもり立てよ。必ず子孫は名のある大名になるであろう。私は必ず守護しよう」
 と言い終わると、夫からは音もない。長者夫婦も力に及ばず姫を抱いて帰り、月を経て男子を産んだ。母方の苗字を継いで「大谷次」と言う。「大谷次」に二人の男子がいる。長男を「大谷次」、二男を「伊尾次郎」という。二人とも力持ちで刀剣を持たせれば肩を並べる人はいない。
 そうこうするうちに、純友の乱が起き筑後国はことごとく乱れていたので大谷次には四国を下され、次郎もここへ移った。春日明神と姥が嶽は一体分身であるので春日明神を大須賀に勧請し代々伊尾の氏神とした。伊能尾大明神の由来はこれなのである。
 次郎の嫡子は「左衛門佐」という。四代相続いて暮らした。ところが源頼朝、義経の兄弟不和の事があって、義経が京都を追われさすらっていたときに緒方三郎維義は義経に従って四国にて討ち死にし、伊能尾左衛門は一族なのでこれに従って親子ともども討ち死にしてしまった。その家督・財産は千葉介常胤に下され四男四郎胤信を大須賀城主として大須賀と名乗った。これは大須賀氏の先祖である。詳しくは『千葉家系図』に見ることが出来る。
 それ故に左衛門は没落して十三歳になる末子熊王丸を乳母の子としての処置として伊野尾の神主とした。これより十三代経て神主伊能尾大膳という男子が二人いた。嫡子を『宮内』、次男を『式部』という。兄弟共に心剛にして武芸を好み弓・馬の道優れていて、武器をとっては無双の勇者であった。
 そのころは古河公方成氏と上杉顕定が合戦の最中である。千葉介は双方より(味方に付くよう)頼まれたが、原越前守は成氏へ味方しようと言う。圓城寺は「上杉へ組みすべし」という。評定は一致しなかったが、千葉介は圓城寺の甥なので彼の意見に賛成した。従って双方分裂して敵対することとなった。上杉は大いに憤慨し、田子並びに二鳥の軍勢を差し向けると千葉介はことごとく敗北し討ち取られてしまった。この時、式部は原越後守に属して戦功あった。それ故に伊野尾城主となったということだ。
 大須賀が幼少なのでその姉を式部に嫁がせて安芸守と(官途を)改めて三代相続した。ところが因幡守は六十歳に及んで出家し信月と名乗ったが、矢作五郎が死去したのでその三歳になる子息を大須賀尾張守より預かって圓城寺・長澤等とともに城を守ったそうだ。
 今度、正木大膳によって滅ぼされてしまったことは悲しいことよ。




 この項でもまだ栗林義長は登場していないのだが、大崎城落城の記事であるので取り上げてみた。簡単にあらすじを申せば、安房国の里見の臣、正木氏が北総地区に乱入しその軍門に下った大蔵氏等と共に国分氏の居城、大崎城(佐原市)を攻略するという内容である。守将である伊能信月は自らを犠牲にし幼君を落ち延びさせる美談、そしてその伊能氏の出自が語られている。
 年代が一切記されていないので、いつの出来事かは不明だが、大崎城が正木氏に攻撃されたのは各種の史料よりほぼ史実とされ、時期は永禄7年(1564)の頃とされる。ただし、落城したかどうかは諸説紛々としており定かではない。『東國鬪戰見聞私記』ではこの項の直前の項において永禄6年(1563)2月の記事、直後の項には永禄7年(1564)1月の第二次国府台合戦を掲載しているので、この大崎城落城は永禄6年頃の事件として扱っているらしい。
 簡単に正木氏による北総乱入事件を解説したが、この事件は大変興味深い事件なので、さらに別の機会を設けて詳しく調査し報告したい。

正木大膳
 ここでいう「正木大膳」というのは一体誰なのか。実は正木氏には「大膳」を名乗った人物は四人いるのだが、ここに登場するのは「槍大膳」の異名を持つ正木時茂(1515?-1573?)のことである。だが、最近の研究では北総乱入の総大将は時茂の弟正木時忠(右近大夫、1520?-1576)だというのが定説となっている。時茂、時忠兄弟そろって乱入したという説(東金市史、房総の古城址めぐり下)や時忠、憲時親子説(千葉氏探訪、東庄町史)もあるが、信頼できる史料からは時茂の名は見当たらないのではやり、時忠のみというのが正しいと思われる。この正木時忠を正木大膳に間違えて記述していることに関して痛烈な批判をしている書があるので紹介したい。それは『銚子市史』なのだがその記事をそのまま引用する。
 「『東国戦記』や『伊能氏家記』に記すところは、矢作城は正木大膳に攻め落とされ、守将伊能因幡守朝辰(信月と号す)が矢作氏(国分氏)の遺孤を遁がして戦死すとなっているが、右近大夫を大膳にしたり、その時日を天正十四年七月九日にとするなど、全く人も年月をも無視した偽書たることを露呈している。」
 さらには
 「房総三国を暴れ廻った野武士の親方、正木兄弟が小見川相根塚を手に入れて七年間の長期に亘り、東下総を荒らした事実が文面からよく読みとられる」
 と言う記述もある。「偽書」と切り捨てたり、「野武士の親方」という表現といい、銚子市史の著者はなかなか痛快な書きっぷりである。

矢作城
 佐原市には矢作城と呼ばれた城が三つある。古い順から「本矢作城(佐原市本矢作)」「大崎城(佐原市大崎)」「岩ヶ崎城(佐原市岩ヶ崎)」である。国分氏は自らの居城が古くなったり手狭になったりすると新たに城を築いて移っていったが、国分氏の本城は全て「矢作城」と呼んだためこのような紛らわしい事態になってしまった。さて、この項に登場する矢作城は大崎城のことである。

伊能信月
 国分氏家臣、伊能氏について。伊能氏の出自等はつまびらかではないのだが、古くは現在の大栄町伊能のあたりを領す土豪であったらしい。千葉六党の一つ大須賀氏の香取郡大須賀保進出にともなって、伊能氏は大須賀氏に取り込まれてゆくようになった。大栄町伊能の伊能城は伊能氏の居城と言われている。戦国時代末期になって理由は判らないが、伊能氏は国分氏に仕える。天正3年(1575)伊能景久らは国分氏の許可を得て帰農し、佐原村新宿を開発し佐原開創となった。
 佐原で「伊能」といえばピンと来る人も多いだろう。そう、この伊能氏は日本初の実測日本地図『大日本沿海輿地全図』を作製したあの伊能忠敬の祖である。(ただし、忠敬は養子であるので血のつながりはない) 
 この項に登場する伊能信月という人物、実在の人物かどうかも判らないのだが、大竜寺の六角石碑文や伊能家文書によれば伊能因幡守朝辰入道心(信)月といい、前述の景久の父だという。また大竜寺には伊能信月の墓があるという。

伊能城遠景
伊能城遠景

伊能忠敬旧宅 伊能氏の家紋「三つ巴八曜」
伊能忠敬旧宅 伊能氏の家紋「三つ巴八曜」


大竜寺の六角石碑文について
 大竜寺(佐原市与倉)は大崎城主国分氏の菩提寺であったため、その関係文書を多数所有しているとされており、特に『大虫宗岑和尚語集』は国分氏の動向を伝える文書として重要視されている。その大竜寺の庭に何時建立のものかも判らない謎の六角柱の石碑があり碑文が刻まれている。その内容がこの項と大同小異であるため、どちらかが一方を模したのではないかと考えられている。

里見義弘(1530-1578)
ご存じ、安房国里見家の当主。父は里見義堯。永禄5年(1562)父の隠居を受けて家督を継ぐ。第二次国府台合戦では北条氏に敗北するが、3年後の三船山合戦では大勝し上総国から北条氏勢力を一掃する。父義堯とともに里見氏全盛期を築き上げた。天正6年(1578)上総佐貫状で病死。
 この項においては里見義弘が正木大膳に下総乱入を命じたとあるが、これが史実であるかどうかは判明しなかった。ただ、下総乱入を正木時忠の仕業だとすれば、時忠はちょうどこの頃(永禄7年(1564))、里見氏に叛乱を起こし北条方に与しているので、里見義弘の命令に従って大崎城攻撃を実施したというのは微妙である。

二條大内蔵
 『東國鬪戰見聞私記』にはこの二條大内蔵という人物がしばしば登場するが、大倉城大倉定胤のことらしい。大蔵氏の出自・歴史等はつまびらかではないが、清宝院の記録によれば、「国分寿歓(胤詮)の孫、大蔵親胤はじめて城を築き、その子胤利継ぐ」とあり、また『鎌形七郎兵衛文書』によれば「千葉氏の族、大蔵定胤(二条大夫)なるものここに居る」とあり、定胤は親胤の父であろうと言われている。
 「二條大内蔵より内通があったので」とあるが、これは事実ではない。大蔵氏は小見川の相根塚を拠点にする正木時忠に攻撃を受けて降伏したと考えられている。その後、時忠の配下として大崎城攻撃に参加させられていたかもしれないが、大蔵氏の内通を理由として大崎城攻めが実施されたのではない。
 この大蔵定胤、『東國鬪戰見聞私記』の世界では、後に栗林義長に居城大倉城を攻め落とされ、ついには討ち死にしている。

鳥井筑後・村田兵衛・森戸五郎
 正木大膳に従って大崎城攻略戦に参加した武将は鳥井筑後、村田兵衛、森戸五郎、二條大内蔵の4人ということである。この4人、後の項では千葉氏方の武将として活躍するのだが、この項では千葉一族である国分氏を攻撃している。二條大内蔵は前述したので他の3人について述べよう。
 鳥井筑後 八方手を尽くして調べてみたが、この人物だけは判らなかった。まず千葉一族の系列と考えられるが、鳥井の苗字を持つ千葉氏は存在しない。また鳥井という地名を探ってみたが、千葉・茨城県内に「鳥井」という市町村ならびに大字は存在しない。(小字については未調査) 『東國鬪戰見聞私記』内でこの人物に関して詳しい記述もないので、全くの架空の人物なのではなかろうか。また、想像をたくましくすると、天正18年(1590)徳川家康が関東に入国すると矢作領には鳥居元忠を配置したが、この鳥居元忠から鳥井筑後を創作したのではないのか。
 村田兵衛 村田城主村田氏。『千葉大系図』によれば国分氏の祖胤通の第3子有通(有胤)が、香取郡村田村(現、大栄町村田)を領し村田五郎を称した。村田氏についてもその系譜等はつまびらかではなく村田兵衛なる人物が実在したかどうかは不明である。
 森戸五郎 『千葉大系図』によれば東胤頼(東氏の祖)の子(重胤)の四男海上五郎胤有が森戸を領す、とある。この海上胤有の末裔が森戸氏を称していたものか。近年、銚子市森戸町にこの海上氏の居館が発見されている。(『千葉氏探訪』より) 森戸五郎なる人物はこの海上氏の系列らしいが、この海上氏も『千葉大系図』では胤有以後は4代までしか記述がなくその後の動向は不明である。従って、戦国時代末期においての森戸五郎の実在は確認できない。ちなみに「タウンページ」を見ると現在、銚子市には森戸姓のお宅は一軒もない。さらに、前述の海上氏居館址には現在その海上氏のご子孫がお住まいなのだが海上でも森戸でもなく「木内」姓を名乗っている。

稲尾入道信月
 もちろん伊能信月のことなのだが、この項では伊能姓を「稲尾」「稲生」「伊能尾」の三つが使われている。『東國鬪戰見聞私記』全般に言えることだが、このように同一人物(同一家系)でいくつかの同じ読みの苗字の使い分けが頻繁に見られ、さらには地名にも同様の書き分けがあり、読み手を混乱させてくれている。何らかの意図があるとも思えず、著者の不手際と言わざるを得ない。

長澤台林・圓城寺泰種
 この二人は国分氏の家臣として登場している。史実としては国分氏の家臣、伊能・長澤両氏の存在は確認できる。長澤氏は後に伊能氏とともに佐原村に市を開き商都佐原の開創となった。ただし、「長澤台林」なる人物の実在は確認できない。ちなみに「タウンページ」によれば現在、佐原市に永沢・永澤・長澤・長沢姓のお宅が12軒存在する。
 円城寺氏といえば、千葉常胤の七男、日胤を祖とする家系、また千葉宗家の家臣としても有名である。国分氏の家臣にその円城寺氏がいたかというと、文献上では発見できなかったので判断は下せなかった。従って圓城寺泰種なる人物の実在も不明である。ただ、千葉氏遺臣の圓城寺胤兼が佐原村開創に加わっていると言われており、国分氏家臣圓城寺氏の存在はあながち否定できない。ちなみに現在、佐原市には9軒の円城寺(圓城寺)姓のお宅がある。

大崎城攻防戦の描写
 軍記物になくてはならないもの、それは戦闘シーンである。その善し悪しで作品の優劣が決まってしまうと言っても過言ではあるまい。さて『東國鬪戰見聞私記』ではどうか。
 一度でも大崎城を訪れたことのある人で、この戦闘シーンで納得のいく人はどのくらいいるだろうか。大崎城は南北約1km×東西約330mで香取郡市内でも森山城に次ぐ規模を誇り、三方を沼地に囲まれ台地基部との切り離しには何本もの堀切を穿つという難攻不落の城塞なのである。しかも、落ちぶれたとはいえ千葉六党の一つ国分氏の居城である。それがたった一日で落城してしまうとはあまりに安直ではあるまいか。主郭は特に防備が厳重で、攻略しようと思えば沼地を舟で接近し高さ10mほどの切岸をよじ登るか、2曲輪から2本の堀切に長大な橋を架けて突入路を確保しなくてはならない。この項においてこういった戦闘シーンの描写は皆無である。また、「東の門に火の手をあげるから、これを合図に攻め込め」というくだりがあるが、文脈上この東門は主郭の門であると考えられる。しかし、実際の大崎城の主郭に東門などは存在しない。
 これらから言えることは『東國鬪戰見聞私記』の著者は大崎城を全く見たことがないのはほぼ明らかということである。『東國鬪戰見聞私記』の戦闘シーン全般に言えることだが、臨場感に乏しく何か空々しい印象を受けるのは否めない。

大須賀城
 大須賀氏の居城「松子城」(大栄町松子)のこと。

伊能越前、伊能勘解由
 伊能信月の子と孫、もしくは両人とも子か。前者だとすれば越前は伊能景久、勘解由は伊能景常ということになる。

若君
 ここでようやく国分氏当主が登場する。「若君」と呼ばれているくらいであるから元服前の子供ということになる。さてこの「若君」とは一体誰なのか。前述の大竜寺六角石碑文によると「天正の初め、矢作城主国分氏には跡継ぎがなく他界してしまったため、大須賀氏より養子をもらった。名を竹若丸といい、伊能信月を後見とする」とある。
 歴史上、この時の大崎城主は誰だったのか。『香取文書大禰宜家所蔵』に永禄4年(1561)大崎城主国分胤憲が香取神宮へ所領を寄進した記録があり、また『大虫宗岑和尚語集』には胤憲が永禄5年(1562)5月に死去したと記載されている。『東國鬪戰見聞私記』では大崎城落城は永禄6年頃としているので胤憲はその直前に亡くなったということになる。胤憲に跡継ぎがなかったのかというとそうではない。胤政という子があり、父の死後すぐ家督を継いでいると考えられている。従って、子がなく大須賀氏から養子(竹若丸)をもらったという話は信用できない。おそらく伊能信月の活躍を誇張したいが為に創作されたシチュエーションではないのか。
 本題からはずれるが、竹若丸に関する伝説を披露しよう。大崎城下を流れる香西川に架けられた県道佐原・多古線の橋、正式には「豊橋」というが地元民には「うれい橋」とも呼ばれている。その名の由来だが、天正年間、大崎城落城の際、国分氏の奥方が幼い竹若丸を抱いて、ここで溺れ死んだからだという。

うれい橋
大崎城下を流れる香西川に架かる「うれい橋
背後の台地は大崎城


壮絶な自刃
 腹を切り裂き腸を引っ張り出しそれを口にくわえて櫓の上から真っ逆さまに落ちてゆく、という何とも凄まじい自刃シーンである。これほど壮絶な死は『東國鬪戰見聞私記』の中でも珍しい。ただ、実際に行われたかどうかは判らないが、このような自決方法は軍記の中では時々見られるものである。

伊能氏のルーツ
 ここでは伊能氏のルーツが長々と語られている。いつ頃の話かと思えばなんと純友の乱(天慶2年(939年))以前のことだという。もうここまでくれば検証しようがないではないか。そもそも、あまり面白い話でもないので省略させて頂く。

無責任な男
 伊能氏の祖とする名も判らないこの男、下品な言葉を使わせてもらえば「やり逃げ」ではないか。長者自慢の箱入り娘を妊娠させておいて、手に針を刺されたくらいで恋人を捨てるとは何事だ。しかも偉そうに「必ず子孫は名のある大名になるであろう。私は必ず守護しよう」などとは片腹痛いこと極まりない。自分の恋人すら面倒見切れないというのに、子孫を守護など出来るわけがなかろう。末裔の伊能信月や忠敬が読んだらさぞかし憤慨するに違いない。

怒れる伊能忠敬
忠敬先生なんとか言ってやって下さい





総論
 この項は『東國鬪戰見聞私記』のメインストーリー(常南連合×佐竹氏)からははずれており、サブストーリーの一つとして見てよいだろう。大崎城落城という大事件を扱っているにもかかわらず、伊能氏ルーツの記述の方が多くの紙面を割いていることや、国分氏不在そして伊能信月大活躍の内容から、この項は伊能氏顕彰の感が拭えない。大竜寺六角石碑文との絡みなどから想像すると、江戸時代に書かれた伊能氏先祖を称える文書か何かがあって、それを元に『東國鬪戰見聞私記』に組み込まれたものではなかろうか。





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