東國鬪戰見聞私記

巻之一 第一項
皆川、大道寺並に神田貞興の事

 考えてみると、この書の著者、皆川入道老甫大道寺入道友山はともに上野国の生まれで、老甫は皆川城の城主、友山は松井田城の城主である。この二人の武将の事績は当時のいろいろな書物に詳しく書かれているので、今ここでことさらに記すことはあるまい。
 さて、天正十八年(1590)、秀吉公が相模国小田原の北条一族を攻撃なさった時は、両武将ともに降伏し、その後、皆川は出家し老甫と名乗った。東照神君(徳川家康)の配下となって本領を安堵され、もったいなくも家光公がご幼少のころ、養育係を仰せつかった。老甫は年老いて、竹千代君(徳川家光)へ申すべき物語等の失念を畏れて、あちらこちらに紙にメモして脇差しの紐にくくりつけて参上した。その紙に書かれた珍しいと思える事柄を物語って差し上げた。そのころ、忘れてしまいそうなことを紙に書いて紐に結びつけるのことを専ら『老甫書き』または『老甫流』などといった。まわりの人々はもちろん誰もが、そのころは老甫の真似をしていたという。その後、子息の左京に家督を譲って、現在皆川家は旗本となって四千石の俸禄を得ている。
 また、友山は越後宰相忠長卿の家臣となって越前の福井に住んだ。家を嫡子、孫九郎に譲り、今では越後宰相忠長卿の老臣となり五千五百石を領している。この二人は長命で八十歳を越えている。友山は『落穂集』の作者で、和漢の書に精通し古戦記は特に詳しい。老甫もまた古戦記等に精通している。
 この書を編纂した理由は次の通りである
 竹千代君が名将になられる器量の持ち主だったので、老甫に古い物語を伽話としてよく聞かせた。ある時、老中である佐倉城主、土井大炊頭利勝が老甫にいった。
「お前は竹千代様に関東の古戦談をお聞かせせよ。武将としての知識になるだろう。お前はそのころの合戦はことごとく見聞しているだろう。勉強の前にお聞かせせよ」
 老甫はかしこまって東国の戦記を物語申し上げていた時、大道寺も江戸にいた。老甫とは昔から親友であったのでたびたびお互いに訪問しあって語り合った。ある日、老甫は友山に
「東国の軍記を全て集めたいと思う」
といった。友山もその気になった。
 したがって、昔の戦場において実際に合戦を見聞した老人や名家を尋ね求めて、かれこれと話を聞いて全く虚言や依怙贔屓を加えず、自分自身の敗戦は敗戦と記述してありのままに書いた。そうやって書かれたものがまさにこの書なのである。
 さて、ある家に秘蔵され閲覧禁止となっていたところ、神田貞興という人物がいて、生まれは美作国で幼少のころから博学で壮年になって江戸に出て文章の達人として世にその名を知れ渡っていた。また一方では古戦記に精通しており、のちに軍記物の講談師となった。この人物、縁あってこの書(東国闘戦見聞私記の原本)を譲られて読んだところ、大いに感動し、
「これこそ東国古軍記の随一なり」
といって大いに喜び、校正して全四十巻とした。
 老甫・友山の両将が壮年時に見聞きした軍記なので『東国闘戦見聞私記』という。神田氏は江戸の軍記講談師の元祖にして現在、志道軒・瑞龍軒・志龍瑞見などと称するのはみなこの人の門下である。講談師の創始者というべきその人の名は「神田仁右衛門尉貞興志融軒」という。現在、彼の名前の一字をとって称している人達を講釈師と呼んでいる。




 この項は『東國鬪戰見聞私記』の冒頭の部分である。この書は著者、編まれた経緯等に関してよく判らないという謎の軍記なのだが、いきなりこの冒頭でそれらを暴露しているのである。はなから結論めいて申し訳ないが、この項だけを読んで『東國鬪戰見聞私記』の本質が判ってしまうといっても過言ではあるまい。

皆川、大道寺並に神田貞興の事
 『東國鬪戰見聞私記』の各項には必ずこういったタイトルが付けられている。「凡例」にも書いたが、このタイトルだけは原文のままとした。従ってこのタイトルを現代風に記すと「皆川、大道寺、並びに神田貞興のこと」となる。

皆川老甫
 ここでいう皆川老甫とは皆川広照(1548-1627)のことである。皆川広照は天正5年頃(1577)父、俊宗より家督を継いで皆川城主(栃木県栃木市)となった。この頃皆川氏は秀吉に通じ、北条氏と敵対していたが、その強大な軍事力には抗しきれずついに和睦し北条方へ与した。天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めの際は小田原城木ノ下口の守備にあたっていたが、早々に徳川家康に投降し皆川3万石を安堵される。慶長8年(1603)、家康の6子松平忠輝の傳役として信濃国飯山4万石の城代となる。ところが慶長14年(1609)、忠照の不行跡を家康に訴えたところ、逆に怒りを買い改易されてしまう。広照は傷心のうち京都へ上って仏門に入り老圃斉と号した。その後、元和9年(1623)、2代将軍秀忠によって赦免されて常陸国府中(1万石、現石岡市)を与えられた。この頃、家光に仕えているらしい。寛永4年(1627)、80歳にて没する。
 この皆川広照という人物、なかなか波乱に富んだ人生を送ったと言える。肝心の幼少の徳川家光の養育係だったという件だが、これはかなり胡散臭い。元和9年頃に家光に仕えているらしいが、この時、家光は19歳、養育係など必要とする年齢ではなかろうし、しかも彼は11歳で元服しているので竹千代などと呼ばれるはずがない。どうもこれは広照が松平忠輝の養育係をしていたので、それと混同しているのではないか。あるいは、松平忠輝の養育係というよりは3代将軍家光のそれの方がハクがつくので、そのように意図的に捏造した可能性も考えられる。

大道寺友山
 大道寺友山(1639-1730)は江戸中期の軍学者である。越前藩士繁久の子。初め松平忠輝に仕え小畑影憲、山鹿素行らに軍学を学び、後に会津松平藩、福井藩等に仕える。『落穂集』『武道初心集』『岩淵夜話』等の著者。享保15年(1730)江戸にて没する。享年92歳。
 もうお判りだと思うが、『東國鬪戰見聞私記』の著者とされる大道寺友山は松井田城の城主などではない。ましてや、皆川広照が死んだ時、大道寺友山は生まれてもいないのである。どうして親友になれようか。従ってこの二人が意気投合して『東國鬪戰見聞私記』を著したというのは大嘘である。
 松井田城主の大道寺氏といえば大道寺政繁(1533-1590)である。天正18年、秀吉の小田原攻めの際、北条氏の重臣だった大道寺政繁は松井田城(群馬県碓氷郡松井田城)に籠城した。前田利家隊らが包囲すると政繁はあっさり降伏し松井田城は落城した。その後、あろう事か政繁は豊臣軍の尖兵となって小田原までの道案内を買って出る。八王子城攻略戦で最も奮戦したのは政繁だったという。だが、秀吉にはその豹変ぶりが不評だったらしく、小田原落城後、川越城にて切腹させられた。
 こちらも大道寺友山と大道寺政繁を混同しているのではないか。また、当時『落穂集』などの著者として有名だった軍学者、大道寺友山をどうしても『東國鬪戰見聞私記』の著者の一人にしたいが為、無理矢理こじつけた可能性も考えられる。「この二人の武将の事績は当時のいろいろな書物に詳しく書かれているので、今ここでことさらに記すことはあるまい」などと書かれているが、「ことさらに記」そうものなら、嘘であることがすぐにバレてしまうから書けなかったのではないのか。

土井利勝(1553-1644)
土井利勝が佐倉城主であった時期は慶長15年(1610)から元和10年(1624)の14年間であり、この時、徳川家光は6歳〜20歳である。確かにこの時期ならば土井利勝が家光の養育係を誰かに命じたことは否めないが、先に申したようにこの時、皆川広照は改易され京都で坊さんをしていたのである。どうして利勝が広照に養育係を命じられるのだろうか。

ノンフィクション宣言
「昔の戦場において実際に合戦を見聞した老人や名家を尋ね求めて、かれこれと話を聞いて全く虚言や依怙贔屓を加えず、自分自身の敗戦は敗戦と記述してありのままに書いた。そうやって書かれたものがまさにこの書なのである」 どうだろうか、まさに『東國鬪戰見聞私記』ノンフィクション宣言を高らかに謳っているのである。 まだ、この書を読み始めてたったの十数行だというのに、すでにいくつもの嘘を見せつけられているにもかかわらず、そんなことを信ずる読者がいるとは思えない。

神田貞興

 ここで突然講談師が現れるので奇異に感じられるが、『東國鬪戰見聞私記』と講談との関わりは重要なポイントなので少々詳しく述べよう。
 「講談」という呼称は明治末期以降のもので、それ以前は「講釈」と呼ばれていた。慶長年間(1596-1615)の頃、赤松法印というものが徳川家康の御前で「太平記」等の軍書を進講したのが講釈のルーツといわれている。この頃の講釈師の多くは「太平記」を読んだので「太平記読み」とも呼ばれていた。元禄13年(1700)名和清左衛門が浅草見附近くで「太平記理尽抄」を講じ人気を博し、これが「辻講釈」の始まりとなる。享保年間(1716-1736)神田伯龍子が大名・旗本に招かれて諸軍談を講じて名声高かった。これより神田伯龍子の名は永く講釈師の本家の如く伝えられる。
 以上が、講談創生期の簡単な歴史である。そもそも、講釈とは軍記を講ずる物だということを念頭に置いて戴きたい。さて、その軍記の内容であるが、江戸時代初期に大名たちの前で講じられたものは、相手がつい最近まで実際に戦場で戦っていた人達であるので、虚構・創作はなるべく排除し合戦の様子を正確に伝えるようなものであった違いない。そのころの講釈師はいわば軍事学の講師を担っていたと考えて貰いたい。江戸中期にもなると、講釈の客は武士から町人へと変わる。無学な町人相手に正確な歴史など語る必要もなく、講釈師としての名声を得るならウケのよい演目を講じればよい訳で、史実を元に面白可笑しく創作・虚構を加えていったことは想像に難くない。この段階で講釈は大衆演芸・エンターテイメントへと変質していった。「講釈師見てきたような嘘をいい」という川柳があるが、これこそ、その後の講談の本質を表しているといってよいだろう。
 次に、『東國鬪戰見聞私記』において講談の創始者とされる「神田貞興」という人物であるが、いろいろ調べてみたがその名を見付けることは出来なかった。ひょっとすると神田貞興とは神田伯龍子のことをいっているのかもしれない。ここでは神田貞興は門外不出になっていた軍記を校訂し全40巻にして出版した人物となっている。つまりは『東國鬪戰見聞私記』の第一校訂者ということになる。
 この項「皆川、大道寺並に神田貞興の事」で最も褒め称えられている人物は、著者とされる皆川老甫や大道寺友山ではなく、第一校訂者である神田貞興であることに注目して戴きたい。つまりこの項を書いている人物にとっては皆川や大道寺よりも講釈師の神田貞興の方が重要なのだという本音が見え隠れしてしてると考えられなくはないか。
 ここから先は推察を述べさせて戴く。以上をもって勘案するとズバリ『東國鬪戰見聞私記』は講談のネタ本ではなかったのか。作者は江戸の講釈師、成立年代は江戸時代(中頃以降か)であろう。おそらくは東国の合戦を比較的正確に記した歴史書があって、江戸中期以降それに大いに虚構を加えて大衆演芸化された講談の演目の一つが『東國鬪戰見聞私記』と考察できるが、いかがであろう。



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